1. caption01
  2. caption02
  3. caption03
らくだカイロプラクティック
らくだカイロプラクティック

受付:10:00~21:00
休日:木曜・第3水曜日
住所:札幌市東区苗穂町3丁目
4-18 DearCourt苗穂101(1F)
TEL-011-742-8833
駐車場:3台(7,8,9番)

※出張も応相談
※ご予約の方を優先させて頂きますのでお電話でのご予約をおすすめ致します。




※当店のブログです

よろしければ、以下を押してご覧下さい。



当店にご来店される方は、札幌市東区、 札幌市北区、札幌市白石区、札幌市厚別区、札幌市豊平区、札幌市清田区、札幌市中央区、札幌市南区、札幌市西区、札幌市手稲区、江別市、石狩市、北広島市、千歳市、苫小牧市、鵡川町、岩見沢市、美唄市、砂川市、小樽市、南幌町、真狩村、寿都町、室蘭市、旭川市、増毛町などから来店されております。


~「脱ゆがみ=うきうきな毎日☆」~これを知れば何か得られるのかも・・・?!


これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

※~「脱ゆがみ=うきうきな毎日☆」~のPDFデーター・ダウンロードはこちらPDFダウンロードページへ行く

5、「クオリア問題」と「遠近法思考」

①私的クオリア問題

私的に、「クオリア問題」なるものを哲学的(形而上にして形而下の領域という意味での)に喩えていうなら、

ホログラム(CD、DVD、BLU-RAYなどの光ディスクの裏面や高額紙幣に導入されている)の観測に相似していると言えるのかも知れません。

つまり、物事というのは、見る角度により、無限通りといい得る視点とその解釈が存在していると言えて、故に、少数の視点であるほど、

視野狭窄を根底においた先入観や固定観念などの罠に陥り、苦悩やジレンマ(葛藤)などの呪縛に嵌る傾向にあり、

かといって、視野広漠過ぎると、それは、それで、際限がないからこそ故の、苦悩やジレンマなどの呪縛に嵌る傾向にあるとも言い得ます。

つまり、同一の現象を観測し何らかの「感覚質」を得たとしても、人それぞれ感じ方が違い、また、同一の人であっても、その状況により、感じ方が変化してしまう。

即ち、認知バイアス(偏り)に陥るほど、自己と他者という人間関係と、自己そのもの間で、もつれ相関し合いながら、苦悩やジレンマなどの呪縛に嵌る傾向にあるとも言えます。

即ち、「ロダン」の「考える人」状態だと言えます。

②物事の捉え方

例えば、絶対値において1050円は、それ以上でもないし、それ以下でもないのですが、

その人によって、また、同じ人であっても、置かれた状況により、相対価値、つまり、価値観と意味合いが違って来ると言えます。

100 均好きなある人は、1050÷105=10 個と解釈するかも知れないし、

ビール好きな人は、1050÷220(350 缶ビール近所のあるコンビニにおける小売価格)=4.77本

吝嗇(りんしょく)過ぎる人は、3~10倍くらいの感覚で以って、100均を315円~1050円くらいの価値観で利用したりするのかも知れません。

そして、さほど辛くないときは、カイロや整体は、1050÷5000(当店のカイロ50分コースの料金)=0.21回分と解釈するかも知れませんが、

ひどく辛いときに施術を受け、施術後、その辛さが、すっきり・らくらく(当店のキャッチ・コピーでもある)になったら、

それは、それで、5000円が何倍もの価値にも感じられるかも知れません。

③遠近法思考

さて、人というのは、予想や現実たるその現象や出来事が、自己にとり、関連度が高いと感じられるほど、それに比例して、重要に重く感じられ、

関連度が低いと感じられるほど、それに比例して、些細に軽く感じられる傾向にあると言えます。

要するに、その現象や出来事が、人により、また、同じ人であっても、置かれた状況により景色が違って見えると言えます。

つまり、人は、自己にとり重要であるほど大きく感じられるように出来ているので、

結果的に、人は、程度の差はあれども、誰しもが、自己中心的な生き物になるように出来ているとも言えます。

つまり、人は、物事を判断するとき、自分の視点から出発しており、その人の年齢や立場、性別、文化的背景などから見えるもの、見えないものがあり、

その人にとって、重要なこと、些細なことも、その人の視点によって、決まってくる。

かの、哲学者ニーチエは、それを、「遠近法思考」といったのですが、

その「遠近法思考」は、自覚しておらず、意識していない部分でも、人の「認知行動」に常に作用し影響を与えている。

つまり、その人固有の「遠近法思考」という枠の中で感じ、考えていることになる。

※参照文献

白取春彦監修、まんがと図解でわかる「ニーチエ」、「別冊宝島」、 2013 年、 P30 ~ 32より

④他者というものは、自己の主観を通したところの他者に過ぎない

さて、③で記したとおり、人は、その人固有の「遠近法思考」という枠の中で、物事を感じているということを、

共有するほど、自己像は見失いにくく、かつ、人間関係も、また、円滑に進むであろうとと言えます。

言い換えれば、そのことを忘れると、

「僕は、私は、こんなに頑張っているのに、こんなに思っているのに、相手はわかってくれない、気づいてくれない、リアクションが感じられない」と、

しまいは、「けなげな悲劇の主人公」となるやも知れません。

まあ、これは、これで、ひとつの生き方でもあるし、「過ぎたる猶及ばざるが如し」の領域において、「けなげな悲劇の主人公」は、それは、それで、いいのかも知れませんが・・・。

いずれにせよ、他者というものは、自己の主観を通したところの他者に過ぎないと言えます。

つまり、自己そのものと(=A)、自己の主観を通したところの他者像は(=AB)は、イコールにはなり難く、

同様にして、他者そのものと(=B)、他者の主観を通したところの自己像は(=BA)、はイコールにはなり難いと言えます。

従って、他者に対して自己の尊重を期するなら、自己においてもその他者というものを尊重しない限り、一方的な要求となるやも知れず、

しまいは、自己を見失い、かつ、人間関係はぎすぎすしたものになるのかも知れません。

つまり、4、「ニュートンのゆりかご」の如く、「自己尊重要求=他者尊重受容」であると言えます。

④万物、万人に感謝すべく運命を愛あらん・・・

さて、「陰陽論」の如く、「矛と盾」、2で記したところの「アゴニスト」と「アンタゴニスト」の関係には、相補性があると言い得ます。

つまり、陰は陽によって、陽は陰によって、「相互補い合い」の振舞いをしているので、片方が傷つくと、結果的(時間軸の延長線上)に、両者とも傷つくことになると言えます。

逆に、片方が癒されると、結果的(時間軸の延長線上)に、両者とも癒されることになるとも言い得ます。

自己内の矛盾、男女関係、親子関係、友人関係、仕事関係などの人間関係も同様であると言えます。

さて、陰は陽を失うと存在出来得ず、その逆も、また、然りです。

つまり、欠点は利点によって支えられ、利点は欠点によって支えられていると言えて、かつ、時間軸Tにおいて、それらは、流転していくであろうとも言い得ます(=万物流転)。

例えば、自己や気になる人の欠点やあらを感じたり・見えたことで、ネガティブな反応で自己の劣等感を感じたり、その人を嫌いになったりすることがあるかも知れません。

しかしながら、上記に記したように、利点と欠点は表裏一体なので、結局は、本質を見失っているところの、ドクサ(虚知)な振舞いであるといい得るのかも知れません。

そんなときこそ、「二律背反(アンチノミー)」ちっくに、そのあらや欠点を愛そうとすればいい。

しかしながら、自他共に調子に乗り過ぎてしまう(=おだつ)と、それは、それで、いけないので、

「柔らかいふとん」のようではなく、「固いところのせんべいぶとん」のように、そのあらや欠点を愛することこそが、エピステーメー(真知)となり得るのかも知れません。

つまり、自己が自己を尊重出来ない、期待出来ない、愛せない人であるほど、他者を自己の鏡の如く投射させ、そこにある欠点やあらを探そうとし、

詭弁、拡大解釈、論点のすり替え・こじつけ・押し付け、権威への訴えなどを駆使して、しまいは、個人攻撃、誹謗中傷ごととなるのかも知れません。

即ち、他者の欠点・あら=自己の欠点・あらであるともいい得ます。

言い換えるなら、他者がいないと、自己の欠点・あらは見出し得ない・・・。

つまり、その欠点・あら解消動機が、自己を大いに進歩・成長させるといい得るので、

従って、自己が自己を尊重出来ない、期待出来ない、愛せない人であるほど、精神の進歩・成長の速度が遅く、

かつ、他者を尊重出来ない、期待出来ない、愛せないであろうといい得ます。

つまり、

「愛される=愛する」→「愛される-愛する=0(無)」、

「my love=your love」→「my love-your love=0(無)」、

「自己愛 =他者愛→自己愛-他者愛=0(無)」

という等価式が成立するといい得ます。

即ち、絶対値或いは相対値の領域においても、「これはこうでなければならない」「これはこうあるべきだ」と言う感じで、

「愛される」「my love」「自己愛」<「愛する」「your love」「他者愛」、或いは、「愛される」「my love」「自己愛」>「愛する」「your love」「他者愛」と認知するほど、

相互リンクにして相補性たる心身と人間関係の相関において、それらは必要以上の苦悩やジレンマの罠に陥り、しまいは、「ロダン」の「考える人」状態になるやも知れません・・・。

まあ、それは、それで、誰もが通る道だとも言えるし、だからこそ、精神が高みになるべく成長・進歩するであろうとも言えるのですが、

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「礼も過ぎれば無礼になる」「薬も過ぎれば毒となる」という感じです。

いずれにせよ、「万物、万人に感謝すべく運命を愛あらん・・・」と論駁すること相成りまする・・・。

8、「愛」なるもの・・・?!

さて、ここまで、「愛、愛、愛、愛って、おさるさんだよ」じゃないんだから・・・ (゚∀゚)

という感じで、さんざん愛と記してまいりましたが、今更ながら、愛なるものってなんでありましょう・・・?!

つまり、「愛」なるものの定義付けなのですが、

16世紀にポルトガルより日本へキリスト教が伝来して来たとき、「amor(英語でいう love )」の訳に、

当時の切支丹らしき人は、「amor」=「御大切」という訳を当てたといわれております。

つまり、情愛含んだところの包括的な「愛」=「御大切(=real love)」と相成ったと言い得ます。

たまたま、その訳者が「御大切」としたともいい得て、「御大事」でもよかったのかも知れませんが、

いずれにせよ、当時の日本人は、人対人だけではなく、他の生き物や物に対しても、「御大切」に想い合っていたのかも知れません。

とはいっても、「もったいない」ではなく、生きること(=食べること)とは、何らかの犠牲により成り立ち、ときには、命を奪うことでもあるが故に、

それは、それで、「侘しく、寂しく」あり、つまり、「侘び・寂び」「一期一会」となり、

「御大切」に想うからこそ、食べるとき、何かを頂くとき、ありがたく、「いただきます」「ごちそうさま」となったのかも知れません。

つまり、「いただきます」「ごちそうさま」とは、「愛」=「御大切(=real love)」な想ひであるのかも知れません・・・。

さすれば、今宵、大事なるあの人に対して、

「私はあなたを御大切に想ふ(= I love you o.k. )」というのも、それは、それで、「なんだか、いとをかしかな」という感じでございます・・・(*^_^*;)

さて、私は、切支丹ではなく、施術者にして研究者なので、次以降、更なる別の視点で、探求して行きたいと想います。

9、 人の認知行動における原理・原則 ・・・?!

さて、心身についてここまで記して参りましたが、改めて、私が思うところの、人間関係における人の認知行動にある原理・原則をざっくりと記すとします。

①「人は誰かに必要とされることを行動の最大目的としている」

言い換えるなら、自己が必要とされていないと認知したなら、自己は孤独と不安を感じる傾向にある

②「大きな矛盾を抱えさせあえて厳しい環境下に自己を置くことで、なり得るものになろうとする」

言い換えるなら、なり得るものになろうとする自己であるほど、自己を厳しい環境下に置く傾向にある。

①②を融合させるなら、「なり得るものになるために、大きな矛盾を抱えてまでも、自己をより必要と認識され得る人間関係を求めてしまう傾向にある」

さて、ここまで、ご覧下さっている皆様は、私が何をいはんとしているのか、もう、お分かりいただいているかも知れません。

つまり、「その原則の下で、相互リンクにして相補性たる心身と人間関係が相関し合っている」と言えるのかも知れません・・・。

 

さて、次項以降は更に哲学的(形而上にして形而下と言う意味での)にして小難しくなり難易度が更に上がると思われます。

ご興味があれば、続きをご覧下さい。



次ページ:10、事実認知=勇気




らくだカイロプラクティック